2011年02月13日

お弓神事2011

神功皇后上陸画 素描
神功皇后上陸画 素描 posted by (C)鳶眼

◎福山市無形文化財/お弓神事のすべてを知ろう!
http://ameblo.jp/tomonoura/entry-10765698455.html





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2010年03月01日

鞆七島

太子殿からの風景
太子殿からの風景 posted by (C)鳶眼

古代、鞆は七島(ななしま)と言われていた。

◎野島
◎中州
◎中島
◎大河島(鯛ヶ島)
◎玉津島
◎淀姫島(明神山)
◎津軽島


弁天島、仙酔島、皇后島は七島には属さない。


この備忘録は、それぞれ解明するたびに書き足していきます。
※()内は、諸説ある別名の呼び名を表記


【野島】
※不明、切り崩され埋立用の土砂として使用されたのかもしれない。
【中州】
※不明、切り崩され埋立用の土砂として使用されたのかもしれない。
中州と陸地を繋ぐ箇所に“ささやき橋”が存在したとされている。
【中島】
現在の鞆城趾公園
大河島(鯛ヶ島)
現在は陸続きとなっているが、当時は孤立した島だった
玉津島(ねずみ島)
現在は防波堤で繋がれている
淀姫島(明神山)
陸続きとなり、淀姫神社のある丘となっている
【津軽島】




◎GOURCRUI

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2010年01月20日

沼名前神社(ぬなくまじんじゃ)



【沼名前神社(ぬなくまじんじゃ)

沼名前神社(ぬなくまじんじゃ)は鞆祇園宮(ともぎおんぐう)とも称され、
大綿津見命(おおわたつみのみこと)を主祭神とし、須佐之男命(すさのおのみこと)を相殿に祀る。
地元では「祇園さん」と呼ばれており、 京都の祇園神社(八坂神社)の本社。
旧社格は国幣小社(明治4年/1871年)で、 戦後は別表神社となる。

海上安全・漁業繁栄・家内安全・病気平癒・学業成就・安産等のご神徳があります。

_____

 人皇第14代・仲哀天皇2年2月6日、神功皇后が熊襲征伐のため下向途中、備後の南の浜(鞆の浦)に立ち寄った時に海中から霊石が湧き出たという。
神功皇后はこの地に社の無きことを知り、ここに斎場を設け、その石を神璽として「綿津見(わだつみ)命」を祀り海路の安全を祈願したのが神社の起源(本来は渡守神社)であり、また、鞆の浦の「鞆」という地名は、神功皇后が再びこの地に立ち寄った時に渡守の神(綿津見命)に奉納した「稜威(いづ)の高鞆」(武具)に起因し鞆と呼ばれるようになったそうです。
(『沼名前神社由来記』より)

神功皇后御還幸の折、再びこの浦に寄り、 綿津見神の大前に稜威の高鞆 (いづのたかとも:弓を射る時に使った武具の一種)を納め、お礼をしたところから、 この地が鞆と呼ばれるようになる。


沼名前神社由来記が作られた当時(明治45年)の住所は
廣島縣備後國沼隈郡鞆町字後地草谷

 渡守神社の祭神・オオワタツミ(海神)を主祭神とし、鞆祇園宮の祭神・スサノヲを相殿神とし、合わせて式内・沼名前神社を称するが、これは明治9年(1876)以降のことで、これに至る経緯について、諸資料を勘案すれば概略次のようになる(資料によって諸説アリ)。

江戸期以前/渡守神社→鞆の西町に鎮座(御旅所がある字古城跡の辺り)
      鞆祇園宮→鞆の関町(現在地不明)に鎮座
慶長4年(1599)/鞆の大火に類焼し両社とも焼失、
         その後(時期不明)渡守神社→後地村麻谷に再建遷座
         (福島正則−広島藩在任1601が、麻谷の祇園社に並べて再建ともいう)
         鞆祇園宮→後地村草谷に再建遷座

貞享2年(1685)/渡守神社→藩主・水野氏が後地村草谷に遷座

明治元年(1868)/鞆祇園宮を素盞鳴神社と改称(神仏分離令によってゴズテンノウをスサノヲに変更したのもであろう)

明治4年(1871)/鞆祇園宮が国幣小社に列したとき、祇園宮を沼名前神社と改称(鞆祇園社を式内・沼名前神社と誤認したためという)

明治7年(1874)/宮司・吉岡徳明から、“式内・沼名前神社は渡守神社”との上申があり、これが採用され

明治8年(1875)/渡守神社を式内・沼名前神社と認定

明治9年(1876)/渡守神の神霊を本殿に奉斎し、祇園神を相殿に奉斎、現在に至る



もとは、鞆の西町に鎮座しており、渡守大明神と呼ばれていた。
現在、その渡守社は、当社境内の摂社となっている。
参道右の階段正面にある渡守社が、その旧社といわれている。

鞆の西町の社殿は、慶長4年の火災で焼失し、後地麻谷に遷座。
貞享2年、藩主水野氏により草谷(現在地)へ再建。
明治9年に祇園社本殿へ遷された。

その祇園社は、もと鞆浦関町に鎮座していたが、慶長4年の火災で同様に焼失。
その後、草谷(現在地)へ遷座。
当時は祇園社が、式内・沼名前神社であると考えられていた。

「沼名前神社」という社名は延喜式神名帳に見えるが中世には所在が不明となっていた。
近世に各地の式内社の考証が盛んになり、沼名前神社については
「渡守(わたす)社」とする説が有力となった。

渡守社は、
社伝では神功皇后が当地で海中から得た霊石を祀り航海の安全を祈願したのに始まるとされ、
祭神は「船玉命」とされていた。

渡守社は貞享2年(1685)、
『備後国風土記』に記載される
「疫隈国(えんのくまのくにつ)社」に比定された
「鞆祇園宮」の境内(現在地)に遷座した。

明治4年(1871)、
鞆祇園宮が国幣小社に列せられたが、
明治8年(1875)には式内・沼名前神社は渡守社であるとされ、
渡守社が祇園社本殿へ遷され、祇園社は相殿に祀られた。
古名の沼名前神社に改称した。
その際、渡守社の祭神であった船玉命は、海の神ということで大綿津見命とされた。
祇園社にとっては、本殿を乗っ取られた形になってしまったが、
今でも「祇園さん」と呼ばれ崇敬されている。

神紋は、本家祇園・八坂神社と同じ、木瓜紋。

社殿からは、海を挟んで対岸の仙酔島が見える。
境内・境外に40社の摂末社があり、
鞆字古城跡に、御旅所がある。







「鞆の地は山水秀霊の地…
…備後の東南端、海に突出せる半島形の一隅に位し…」

『沼名前神社由来記<明治45年4月15日発行>』の序章に編者の言葉で鞆の地についての説明から始められている

それによると、鞆は景色が美しく霊験があり、地の利もある…と

また沼名前神社は「ぬなさき」ではなく、『奴奈久萬(ぬなくま)』が正式の呼び方。
_____

延喜式神名帳に、『備後国沼隈郡 沼名前神社(ヌナクマ)』とある式内社だが、式内社の後継と称する「渡守神社」(ワタツ<シ>)と「鞆祇園宮」を合祀したもので、今、「鞆祇園社 沼名前神社」と称している。俗称:祇園宮。なお、神社名・沼名前は“ヌナクマ”と読むが、“ヌナサキ”と読む古資料もある。古資料・福山志料(文化6年・1809)には「式にはヌナサキと読ましむ。然れども郡名・沼隈(ヌナクマ)ならば、神社も同じヌナクマと訓すへし」とあり、郡名からくるとする。
_____

また鞆という地名の由来、そしてこの地に『沼名前神社』が祀られている由来も、神功皇后の熊襲遠征(仲哀天皇2年)にまつわる伝説に起因する

沼名前神社の境内に鎮座している渡守(わたす)神社が、実は沼名前神社の前身であり、
神功皇后により「綿津見命」が祀られ、海の航海安全が祈願されたという事が記されている


 坂を登り、入り口の右手に『森下仁丹』の創業者である森下博翁の胸像があり、出所としても知られており、更に長い階段を上り詰めた正面に社殿がある。
自然の山を背景に収まっており、風光明媚な景勝地を一望できる広い境内には数々の神社があり、数多くの神々が祀られています

お弓神事・お手火神事は有名で、市の無形文化財にも指定されており、
格式のある能舞台始めいくつかの重要文化財もあり歴史を感じる。
また神社の統廃合の経緯から、「須佐之男命」を祀る「祇園宮」も一緒に祀られており、
現在も祇園さんとして親しまれている。



沼名前神社(鞆祇園宮)
所在地/広島県福山市鞆町後地1225
営業時間/8:00〜16:00








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posted by 編集長/魚屋(うおや) at 19:32| 広島 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ◎神々の足跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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